ふと、目の前で世界の全てを許し慈しむような美しく柔らかい笑みを浮かべた人を見てそう思った。俺は何度もこの顔を見ている。何度もこの光景を見ている気がする。俺は彼が、この後に何を言うのか知っているような気がするのだ。
きっとこの人はこう言う。
『「大丈夫、もう一度やり直そうか」』
* * *
僕は悠久にとっての指針であり人生であり、世界そのものである。ある種、宗教じみてすらいると思うけれど、そうなのだ。一言で言ってしまえば、僕の彼の神様なのである。だからどんな馬鹿げていることでも、誰もが間違いだと言うことでも、僕が正しいと言えば彼にとっては正しいことで、それは揺るぎのないものとなった。
それに気が付いたとき、僕は彼が愛おしくてならなかった。なんて愚かで脆くて可愛い子なんだろうと心底思ったし、これこそ僕がきっとずっと欲しかったものなのだと気付いたのだ。
僕が注いだ分だけ、悠久も僕に愛を返してくれる。時にはそれ以上に、己の魂を削り渡すように。そうやってふたりぼっちの、楽しくて幸せな場所をつくっていこうと思っていた。これから先、きっとずっとそうやって二人で生きていくんだと思っていた。
なのにどうしてだろうか。彼はいつも、いつの間にか僕から離れていく。すり抜けて、零れ落ちていくのだ。どんなにしっかりと繋いでいても、はたと瞬きした途端その姿は消え失せ、遥か遠くで僕じゃない誰かと笑い合っている。
まるで悪い夢から醒めたように、僕は彼にとってただの“お友達”に成り下がるのだ。征十郎くん、と僕の名を呼ぶ声はあの眩暈のするような盲目的な甘さを失くし、ただ平たい親愛があるだけ。
そんなの、耐えられるわけがない。許せるわけがないのだ、だって彼は、僕のものだ。
愚かで脆くて可愛い僕の悠久。蛇にそそのかされて禁忌の実を食べたイヴ。間違いは正されなければならない。僕はアダムではなく創造主であり、箱庭の主だ。全ては僕の思うがまま、僕の思う正しさのもとに成り立つ。
初めて悠久を殺めた時、本当に僕も後を追い終わるのだと思っていた。だからまさか、また目を開けて、また彼が隣にいて、もう一度幼少期を過ごすことになるなんて思わなかったのだ。五歳の誕生日に死んでしまう前のこと全てを思い出した時、気が触れてしまいそうだった。気が触れたのかと思った。僕は終わっていなかったのだ。ゼロになって、また始まったのだ!
そうして幾度か繰り返し、僕が命を絶てば振り出しに戻るのだと理解した。事故だとか病気だとか、自ら死ににゆく以外でどうなるのかは知らない。けれど、僕が自殺し続ける限りは、全て振り出しに戻る。
そうだと知れれば、もう何も悩むこともない。望んだとおりになるまで繰り返せばいいのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
全てを覚えているのは僕だけで、あとの皆は何も知らない。
ずっとそうだったのに、突然悠久に記憶の片鱗が現れ始めた。それはいつも断片的で、極々一部の薄い記憶である。けれどいつしか彼は全てを思い出し、知る時が来るのかもしれない。
最も近い場所にいた影響なのだろうか。それとももう、終わりが近いのだろうか。
僕の手を握りしめ、さめざめと涙を落とす悠久を抱き寄せる。己の発した言葉に怯え震える彼は縋り付くようにきつく僕を抱き締め返してきた。
『お前は神様なんかじゃない』。悪い夢でも見ていたのか魘されていた悠久を揺り起こした時、ハッと目を開けた彼が僕を見てそう叫んだ。叫んだ直後、夢から醒めて自分が何を言ったのか理解したのだろう。顔を真っ青にさせて違う、ごめんなさい、と彼は泣いた。
「はる、悠久、もう謝らなくていいよ、大丈夫、何か夢をみていたんだろう?」
「……こ、怖い夢だった」
「どんな夢?」
「……」
「怖い夢は話せば正夢にはならないっていうだろう、話してごらん」
「……征十郎くんが、俺を、殺すんだ……」
「……」
「助けてあげるって、僕は、神様だから、救ってあげるって……征十郎くんは俺に言って、お、俺はそれがすごく、怖くて、拒絶するんだ」
彼の震える背を撫でおろしながら、溜息を吐いてしまいそうになった。
微かな記憶の残滓が、彼の中の僕への感情に瑕をつくっている。なんて忌々しく、恐ろしいことだろう。そこから綻び、また彼が僕の手からすり抜けていってしまうというのか?
「大丈夫、夢だよ、はる。僕がはるを死なせてしまうわけがないだろう?」
「うん……」
「ほら、もう寝よう。きっともう怖い夢はみないよ」
「……征十郎くん、手、握ってて」
「いいよ、朝起きるまで、ずっと繋いでいようか」
小さなベッドで眠る様にぴったりと身を寄せ合って、しっかりとその手を繋ぎ言えば、彼は嬉しそうにとろりと微笑んだ。うん、と安心したように頷いて目を閉じる。それから少しもしないうちに、穏やかな寝息が聞こえてきた。
そのまま、次に目覚めるときには何もかも忘れてくれていればいいのに。少しも覚えていて欲しくない。これまでの、僕が繰り返してきたこれまでの数多のことは、何も知らないままでいてくれなければいけないのだ。じゃないと、彼の手がまた、僕から離れてしまう。彼が離れてしまえばもう、箱庭は壊れてしまうのだ。
* * *
征十郎くんは、俺にとって神様みたいな人だ。征十郎くんはいつだって正しくて、悩み惑う俺にどうすべきか教えてくれて、困っていれば優しく手を差し伸べて助けてくれて、何も出来ない駄目な俺でも見捨てずに好きだって言ってくれる。
本当に征十郎くんは完璧で、神様みたいなのだ。道を照らしてくれて、俺の手を引いてくれる、俺だけの神様。
でも最近、どうしてか俺は征十郎くんが恐ろしくて堪らなくなる。この人は俺の神様なんかじゃない、この人と一緒にいたら駄目だって、そう思ってしまうのだ。彼は俺に罵声も浴びせないし、暴力も振るわない。いつだって優しくて、あたたかい。なのに俺は、彼が何よりも恐ろしいと感じてしまうのだ。
そう思ってしまう自分が嫌で、そう思ってしまう度に俺は征十郎くんへごめんなさいと謝る。だって、おかしいじゃないか。征十郎くんは何も間違っていないし、怖いこともしていない。ただただ俺に優しくしてくれているだけなのに。
「俺、多分おかしいんだ、だって、征十郎くんは何もしてないのに、ごめんなさい」
「泣かなくていいんだよ、はる。謝らなくていい」
「でも、お、おれ……、」
優しく、宥める様に頬を撫でてくれる彼にもう一度謝ろうと顔をあげた。
慈愛に満ちた柔らかであたたかな微笑み。緩やかな弓なりとなった宝石みたいにキラキラと光る赤い瞳。知っている。この後、彼がなんて言うのか。
「大丈夫、もう一度やり直そうか」
今度こそ、素敵な箱庭をつくろうね。彼はそう言って優しく笑って、慈しむように頭を撫でて、俺を殺すのだ。
身近な地獄
2019.01.20