事の始まりなんてもう覚えていない、というよりも、分からない。
ぐっと拳を握りしめて俯くへ何度も謝罪を口にしながら、その顔を覗き込んだ。大きな黒目がちな瞳が、うるうると今にも零れそうなほどに涙を湛えている。

、ごめん、本当にごめん、泣かないでくれ」
「さ、触らないでよぉっ」

ふわふわの髪を撫でると、嫌がる様に胸を押してくる。
ぐずりと鼻を鳴らしたと思えば、ほろりと大粒の雫がその頬を伝っていった。後はもう決壊したようにつぎつぎと涙が頬を滑っていく。顎から落ちていった涙がぱたぱたと服に小さな水の模様を描いていった。

「ど、どうせ、僕がなんで、なんで怒ってるのか、わっ、分かって、ないんでしょ!」

はい、なんて死んでも言えない。
こういう場面でなんと答えればいいのか、いまだによく分からない。どうにも俺はの所謂“地雷”を踏んでしまうことが多くて、よくこうして泣かせてめちゃくちゃに怒らせてしまうのだけれど、どのポイントでそうなってしまうのかてんで分からないのだ。
色々と気をつけてはいるのだけれど、どうにも上手くいかない。ありとあらゆるもので引っかかって踏み抜いている気さえしてくる。よく相談することの多い黒子や黄瀬なんて、のことを密かに地雷原さんと呼んでいるくらいなもので、つまりそれだけ俺はを怒らせ泣かせてしまっているのだ。

『地雷原さんまじ地雷原だから何を気を付けようが意味ないと思うんスけどね、だって地雷原スよ?辺り一帯地雷なんだからどこ踏もうが爆発ッスよ、あはは』

うっかり何時だかの黄瀬を思い出してしまい、気が沈んでいく。

「征十郎くん、ぜんぜん、聞いてないね」

不意にぽつんと呟かれた言葉にハッと視線をあげれば、はらはらと涙を落とすがじっと俺のことを見つめていた。水分を纏いつやつやと輝く昏い瞳が、じっと、真っ直ぐ、俺だけを見ている。
その鋭く研がれた刃に似た仄暗くて美しい輝きが、ざあっと俺から血の気と体温を奪っていった。握りしめられた拳が震えている。爆発する一瞬前のその震えに、一歩、知らずの内に足を引いてしまった。
嫌な予感がするのだ。
は時々、癇癪を起こした子供みたいに暴れる時がある。泣き叫んで、手に付くあらゆる物を投げ飛ばして、台風じみた威力でもって全てを滅茶苦茶にしてしまうのだ、力尽きてしまうまで。

「いつもそう、征十郎くん、僕のことぜんぜん、分かってくれない」

ぽたん、とまた一滴涙が落ちて、不意にがゆらりと動いた。

……?」

手を伸ばした先は俺の本との好きな映画のDVDが並べられた棚の横、その内どこかに片付けないとね、なんて言ってまだそのままにしていたゴルフバッグ。新入生歓迎会の飲み会で行われたビンゴ大会でが引き当てた、当たりなんだか外れなんだかいまいちコメントしづらいそれから、一本、パターが引き抜かれた。
本能的に一歩また後退った俺に、はぐっと顔を顰めて「征十郎くんのばか」と涙と一緒に零す。ハッとしてへ手を伸ばすけれどそれよりも先に、彼が思い切りパターを振り回した。
がん、と側頭部にぶち当たった瞬間、視界に火花が散り衝撃と少し遅れてきた痛みが平衡感覚を殺す。気が付けば硬い床に横たわっていて、視界はまだどこか明滅していて、は泣き叫んでいて。

「ばか、ばか、ばか!征十郎くんの分からず屋っ」

薙ぎ払われたお揃いのマグカップが甲高い音をたてて砕け散った。のお気に入りだったコレクションキャビネットも割られて倒され、横倒しになったカラーボックスから溢れた物が散乱している。
時折振り下ろされるパターは、肩だったり脛だったり、あちこちを打ち付けてきた。

「ばか、ばかぁ」

すとん、とすっかり荒れ果ててしまった部屋の真ん中に座り込んだが、わんわんと泣いている。握られていたパターはどこかへいったのか、その手は一生懸命涙をぬぐっていた。
それがあまりにいじらしくて、震えた肩が可哀想で、今すぐ抱き締めて撫でて宥めてやりたいのに、体は動かない。あちこちじくじくと熱を持ち痛んで、思うように力が入らないのだ。視界は明滅したまま、狭まっていく。
、泣かないで、ごめんね。せめてそう言いたいのに口からは乱れた息しか出てこなくて、どんどん体は重くなっていった。の泣き声が遠くに聞こえ、意識が引き摺られ沈んでいく。

そうして、霞む意識で伸ばした手は彼へ届くことも無く、哀れにぱたんと床へ落ちた。

どんなに苦しくてこんなにかわいいの

2019.05.12 | 特に変わり映えのしないDV話でもって、短編集「獣」は完結と相成ります。お付き合いいただき誠にありがとうございました。