※赤司くんの双子の兄主人公、『瞼の裏には何が潜む』IFですが読んでなくても平気です


時々皇一郎はおかしくなる。俺がいなくなって、僕だけになってから、彼は不意にその心を崩れさせ歪に積み上げてみせるのだ。それからまたふっとそれを破壊して正常な形に嵌め込む。そうなればいつもの優しく穏やかに笑う皇一郎に戻って、僕たちの間にも日常が戻ってくるのだ。
けれど最近、その頻度は上がってきているような気がした。京都の高校に進学すると共に僕と皇一郎は学校の寮ではなくセキュリティのしっかりとしたマンションで二人暮らしを始めて、それが一年経ったくらいからだろうか。少しずつ少しずつ、月が満ちて、潮が満ちるように、緩慢に、皇一郎の心が崩れることが増え、その時間が長くなっているような気がするのだ。

「征、ここに座れ」

皇一郎は決して学校で己を乱すことは無い。その心は、まるで決して壊れない鎧にでも守られているかの如く揺らぎなく、変わらないのだ。けれど自宅のドアを開けて一歩中に入ってしまえばどうなるのかわからない。
そのまま穏やかに笑って、ときに冗談を言って僕をからかったり、ごろごろと喉を鳴らす猫のように僕に甘えてみせたり、そういう僕の知る皇一郎のままでいる時もあれば、焦点の合わない瞳で僕を見つめ、その手を振り上げ打ち付けたり、そこら中にあるものを何でもかんでも投げつけてきたり、泣きながら僕の首を絞めてくる時もある。だから僕は、家のドアを開ける時が一番緊張する瞬間だといっていい。
今日は大晦日で、予約していたおせちを受け取った帰りだった。二人で帰り道にある商店街のたいやきを食べて、夕日に頬を染めながらくふくふ笑いご機嫌な様子を見せていたのに、ドアを閉めた途端彼は僕を突き飛ばした。

……」
「誰が口を開いていいと言った。座れ」

上がり框に足を引っ掻けるようにして廊下へと身を投げ出した僕を冷たい瞳で見下ろし、皇一郎は傘立ての横、冷たいコンクリートを指差す。
その顔に先程までふわふわと柔く笑っていた面影は跡形もない。代わりにあるのは、薄闇を纏い伽藍洞の目をした支配者だ。

「俺がいいって言うまで、ここに座ってるんだよ、征」

僕がよろよろと示された場所に腰を下ろせば、皇一郎は優しい顔で笑って見せ、それから僕を置いておせちを片手にさっさと部屋の中へと入って行ってしまった。
ぱたん、と居間と玄関を繋ぐ戸が閉じられ、冷え切った空間には僕だけが取り残された。


どれくらいの時間が経ったのだろう。すっかり体は冷え切って、微かに震えているのが分かる。ドアの向こうからは時々物音が聞こえてくるけれど、こちらに向かってくるような音は無い。もしかすると僕はこのまま、この寒々しい場所で年を越すことになるのかもしれない。
僕はいいけれど、皇一郎が、『いつも』に戻った皇一郎がきっとひどく落ち込んで泣くだろう。支配者だったときのことは、うっすらとだけれど皇一郎は覚えていた。そして僕にした仕打ちに顔を青褪めさせ謝罪を口にしながら、はらはらと涙を落とすのだ。どうしてこんなことをしてしまうのか分からない、と泣き疲れて朦朧とした意識の中、皇一郎は言っていた。
けれど僕には分かる。
皇一郎は、俺がもういないということを受け入れられていないのだ。表面上は俺がもうどこにもいないということを理解しているように見せているけれど、心のどこかで、きっといつか俺に戻ると思っている。あの日、俺と僕が入れ替わったように、僕に負荷をかければ俺と入れ替わるんじゃないかとどこかで思っているのだ。だから、彼は僕を追い詰めようとするのだろう。
今の状態が嫌になることもあるし、辛くないとは言わない。だがいつか、皇一郎は俺がどこにもいないって知るはずだ。その時、きっと僕は本当の意味で彼を手にすることが出来る。もしかすると、その時彼の心は散り散りになってしまうかもしれない。けれどそれでもいいのだ。散り散りになって壊れてしまっても、彼が僕のものであれば何だっていいのだ。

「征、入っておいで」

差し込む光に一瞬目が眩む。ドアの向こうから皇一郎が顔を覗かせていた。その顔はよく見えない。何時間も同じ体勢いたせいであちこちが痺れてしまいのろのろとしか動けない僕を、皇一郎は黙ってドアを開けて待っていた。
恐い。
何故だかすごく恐ろしいものが待っている様な気がして、彼のもとへ行こうとしていた足が止まってしまった。

「征、はやく。除夜の鐘が始まっちゃう」

除夜の鐘、もう二十二時を過ぎているということだ。
はやく、と急かされ、よろよろと重たい足を動かして僕は彼と共に部屋の中へと入った。暖かな室内にほうっと息が漏れる。ちらりと見た食卓テーブルの上にはおせちが紙袋に入ったまま乗せられていた。

「あの、……」
「なあに?」
「おせち、食べなかったの?」

僕の首からマフラーを抜き取り、コートを脱がせてくる皇一郎に躊躇いがちに問えば、「明日食べよう」と朗らかな笑みを向けられた。いつもの皇一郎みたいな顔をして笑うその目は、伽藍洞なままだ。
怖い、いつもと違う。ごくん、と喉が鳴った。
僕の様子になど何も気づいていない顔で、皇一郎は僕の来ているセーターも脱がせてくる。中に来ていたワイシャツも脱がそうとしてくるのを慌てて止めて、その顔を窺う。そこに何の色も伺えず、一体何を考えているのかも全く見えてこなくて恐怖感は募るばかりだった。

、どうしたの?もう寝る?」
「寝ないよ。いいから服、脱いで」
「どうして、」
「邪魔だからだよ。ほら、除夜の鐘が鳴っちゃうから」
「除夜の鐘って……何かあった?何かするの?」

震える指でワイシャツのボタンを外しながら恐る恐る問えば、皇一郎はとろりとした甘い笑みを浮かべながら「お前のためだよ」と言った。
僕のため。僕のために、何をするっていうんだ。
ワイシャツを腕から抜き取りベルトに手を掛けた時、ごーん……と鐘の音が聞こえてきた。

「ああ、始まったな」

窓の方へと視線を向けた皇一郎はそのまま僕から離れ、テレビ台の横の棚から何かを手に取り戻って来る。
それは金槌だった。

「俺も色々考えたんだけどね、きっとお前があまりに欲にまみれているから、お前もあの子も苦しくて辛い羽目になるんじゃないかなって思ったんだ。だったら、それをどうにかするのが俺の役目なんじゃないかって」
、なに言ってるの」
「大丈夫だよ、俺が助けてあげるから」

うっとりするほど優しくて、見たこともないくらい可愛らしい無邪気な笑顔だった。笑顔で、皇一郎は金槌を振り上げて、まるで鐘の音に合わせるように振り下ろす。
肩が爆発したんじゃないかってくらい熱くなって、口から悲鳴とも呻きともつかない潰れた音が飛び出した。混乱するうちにまた鐘の音に合わせて痛みが襲ってくる。床に倒れ込んだ僕に彼は金槌をまた振り下ろした。
逃がさないとでもいうように足を押さえ込む皇一郎は、はらはらと涙を落としながら、それでも笑っていた。

「大丈夫だよ、これが終わったらお前も幸せになれるから」

涙に濡れて震えた声でそう言いながら、彼は僕へと硬い鉄を打ち込む。何度も何度も、鐘の音に合わせて。

「幸せになろうね、征十郎」

痛みで朦朧とする意識の中で、随分と久しぶりに聞いた愛称ではない僕の名前に嬉しさが込み上げる。もしかすると俺へ向けたものだったのかもしれない。けれどいいのだ。皇一郎が今誰を思っていようが、彼が今その手で触れているのは僕だから。きっともうすぐ、彼は俺がもういないって知るだろうから。

瞼を縫う

2019.03.16