それはこの上なく幸せなことで、だから僕にとって、こんなこと、なんだってないんだ。
彼は、少し情緒が不安定で、僕が彼の支えにならなきゃいけないのだ。僕しか、彼の支えになれないのだ。だから、だから。
どん、とフローリングに叩きつけられた体が鈍い音を立てた。じくじくと鈍く痛み、熱を持ち出した頬は、きっと明日の朝には大きく腫れてしまうだろう。間髪入れずに踏みつけられた肩がぎちりと嫌な音を立てた。痛みに悲鳴を上げてしまいそうなのを、歯を食いしばって飲み込む。ふ、とその足が浮いて、痛む肩を庇うように丸まった僕の体の真ん中へとめり込んだ。
痛みと吐き気で脂汗がどんどんと溢れてきて、呼吸が不安定になっていくのを感じていた。半ば朦朧とする意識で、それでも大和を見上げる。じっと僕を見下ろし、僕の反応を見つめる目は穏やかだ。凪いでいる。
きっと今日は、すぐに終わるだろう。彼のその揺らぐ心を宥める様に僕は笑ってみせた。大丈夫だよ、僕は何ともないよ、と。
「ごめん、征十郎。また痕になるな」
僕に湿布や包帯を巻きつけ終えた大和は囁くようにそう言い、痛めていない方の肩にその額を寄せてきた。見た目よりも柔らかなその髪を撫でれば、ぎゅうっと縋る様に抱き締められる。
幼い迷子みたいなその様子に胸が苦しくなって、肩が痛むことなどお構いなしに僕も大和を強く抱き締めた。
「大丈夫だよ、大和。こんなのすぐに治るよ」
ね、と顔を覗き込み微笑めば、やっと彼の目元が緩む。
そろそろと労わる様に湿布の貼られた頬を撫でられ、そこへと唇が触れた。小さなリップ音のあと、すぐよくなるおまじない、と彼ははにかんだ。それに僕が笑えば、あちこちの傷痕にキスの雨が降ってくる。
大和は本来、とても優しくて、少し甘えたなところのあるかわいい人なのだ。彼の周囲が、彼を傷つけ歪める。それを周りは全く誰も分かろうとしないで、彼の事ばかり責め立てるのだ。彼が加害者で、僕が被害者であるとでもいうように。
大和は加害者じゃない。お前たちの被害者だと言ったところで、誰もそれに納得しない。長い付き合いのはずのテツヤたちですら、僕の顔や腕の傷を見てはいつもいつも、早く別れるべきだ、そんな男といたらいつか死んでしまうと口々に言う。
違うのに。彼は可哀想な人なのだ。誰も彼を理解し受け止めようとしない。僕以外、誰も。僕がいなくなったらきっと、彼は壊れてしまう。僕しか彼を支えられないのだ。
大和は僕がいないと、駄目なんだ。僕は彼を心の底から愛している。彼も僕を愛してくれている。だからこんなのは平気なのだ。
それにこれは、そもそも暴力なんかじゃない。これはただの、彼の心の痛みだ。彼の痛みは僕の痛みでもある。だから全然、平気。
* * *
肌理の細かい綺麗な白い肌に、青や赤の痣が散っている。ところどころにある俺のつけた煙草の痕は癒えずに醜く引き攣れ、不思議な模様を描いていた。それを目にする度、俺の心は堪らなく満たされる。だからついつい、何かっていうと手を出してしまうのだ。
いつだか突っかかってきた征十郎のオトモダチくんが、そんなの愛でもなんでもないだの、彼を開放しろだのなんだの言っていたけれど、なんで関係のない第三者にそんなこと言われにゃならんのだっちゅー話である。人の恋路を邪魔する奴は余さず全員馬に蹴られて死ぬべきだ。
別にこれが俺の愛の証だとか、愛情表現だとかは言わないけれど、好きなやつの体に俺の痕跡が残っているっていうのは途方もない快感を生むものなのだ。
その上、何をされても俺の傍から離れないなんてもう筆舌に尽くしがたいほど可愛い。征十郎ほどパーフェクトに俺好みの人間などこの世にいないだろう。
「あーあ、カワイソーねえ、お前も」
こんなやつに捕まって。
でもお前は幸せだよ、バカみたいな思い込みに沈んで浮かんでこない。俺のことを周囲に傷つけられ続けている可哀想な人間だと信じて疑わないのには驚きだけれど、別にそれで征十郎がいいならいいのだ。
彼が俺の手の内にいるのなら、別に彼がどんな想像に沈み溺れていようが知ったことではない。それで壊れてしまったとしても全く構いやしない。
意識を失くしてしまった征十郎の頬にキスをして、鼻歌交じりに体中に散った傷の手当てをしていく。この痣が黄色になる頃にはまた新しいのを付けよう。
「すぐよくなるおまじないだぜ、征」
聞こえてなどいないだろうけれどそう言いながら、湿布と包帯の上からキスを落とす。良くなる頃には、また鮮やかな色がつくだろうけど。
有刺鉄線の赤い糸
2019.04.22