「せいじゅうろうくん、まだかな」

桃色の柔らかそうな唇からぽとんと落とされたその言葉は、小さくてまろやかな形をしていたけれど、俺の息を止めるには十分な力を持っていた。
仄甘いクマの形のビスケットをぱくんと口に含み、ひどくゆったりとした速度で顎を動かす水緒の視線は、窓の外から戻ってこない。今の今まで楽しそうに一生懸命読んだ本の話をしていたのに、それもなにもかも忘れて、彼は一心に窓の外を見つめてもう一度、「まだかなあ……」と呟いた。
まだかな、だって?俺はここにいるじゃないか、お前の、目の前に!
そう叫んで引っ叩いて揺さぶってしまいたくなるのを、すっかり味の分からなくなってしまった紅茶を飲むことで押し込む。そんなことしたって彼は戻って来ない。そんなことは当の昔に実証済みだった。

「まだ、彼は帰って来ないよ」

からからに乾いた喉から血を吐くように出した声はざらつき、罅割れている。
前の彼なら、俺が少しでもいつもと違うとどうしたの、どこか痛いの、具合悪いの、と丸い瞳を涙できらきらと輝かせながら必死に声を掛けてくれた。けれど今の彼は、そんなのには何一つ気付かない。ビスケットを食みながら、窓の外を見ている。

彼の、水緒の意識は中学二年生の頃で止まっている。それより前に戻ることはあっても、先に進むことは無い。延々と同じ場所で停滞している。
そうさせたのは、間違いなくこの赤司征十郎自身なのだろう。俺にその意識が無くとも、彼をめちゃくちゃに壊したのが『僕』であったのだとしても、客観的に見てそうさせたのは赤司征十郎なのだ。
あの日、良い子で待っててね、と俺に頭を撫でられた記憶で彼は止まっている。その日の夜、帰ってきた僕にかつての彼の両親のような冷たい眼差しで貫かれ、お前のような弱い人間に構っている暇など無いのだと突き放され、彼は何を思っただろう。今まで顔も合わせたことの無かった使用人が定期的に食事を置きに来るだけで、俺が部屋へやってこないことを彼はどう思ったのだろう。
その時の彼とはもう二度と言葉を交わすことは出来ない。全ては俺の想像でしかないけれど、きっと彼は泣かなかっただろう。そうする前に無垢で柔らかな心はぐちゃぐちゃに引き裂かれて踏み躙られてしまっただろうから。他でもない、僕の手によって。
あの時、何をそんなに必死に追い求めていたのか、何かに追われるように、何かから逃げるように勝利というものに固執していた。それを積み重ね続けなければ水緒を守っていけないとまで思っていたくらいだ。そんなこと、無かったのに。
そうして僕は彼がいるから弱くなるなんて思って、守りたかったはずの彼を壊した。本末転倒もいいところ、とんだ笑い話だ。

「せいじゅうろうくんね、僕がいいこで待ってたら、日曜日に水族館に連れて行ってくれるっていってたんだ」

土曜日は練習があるから、日曜日に行こうねって、やくそくしたんだよ。僕、水族館いったことないから、すごくたのしみ。ふふ、と子供のような無邪気で透明な笑顔を浮かべながら、こちらを向いた彼の澄み切った黒曜の目。
水緒、その水族館は先週にも行ったよ。お前はいつもクラゲのコーナーに釘付けになって、一時間は絶対そこにいるんだ。目をきらきらさせるお前を見てると、俺は、少しだけ昔に戻ったような気がして、嬉しくなってたんだよ。

「……そう、なんだ。晴れるといいね」
「うん、でもね、雨でもいいんだ。雨だとせいじゅうろうくんと一緒の傘だから」

水緒は、相傘をするのが好きだった。いや、相傘というよりも雨の音で声が聞こえなくならないようにと少しだけ耳元に近づいて話をするのが好きだったのだ。内緒話をしてるみたいとくすくす楽しそうに笑っていたのをよく覚えている。

「はやく日曜日になればいいのに」

水緒はぱくんとまたひとつ、ビスケットを口に含む。透明な瞳は、どこも見ていない。俺をすり抜けて、あの日の俺を見ている。
もうそれ以上耐えきれなくて、俺は椅子から腰をあげた。

「そろそろ夕飯の支度をしてくるね」

頷く彼を横目に早足で部屋を出て、ドアを閉めると同時に足から力が抜けた。ずるずるとしゃがみ込んで、頭を抱える。
どうしてだろう。どうすればいいのだろう。どうすれば、彼はまた俺を見てくれるのだろう、彼と目が合っているのに、合わないのだ。それが何よりも恐ろしくて、彼と目が合う度に崖から奈落へ突き落とされる気分になる。
彼は、俺を誰だと思っているのだろう。食事を持ってくるだけだったはずの使用人か、別の何かか。ああ、彼の誕生日にプレゼントしたテディベアだと思われている可能性もあるのか。昔、俺が学校に居て家にいない日はよく、そのテディベアに話しかけていると聞いた。
はは、と小さな笑い声が口から零れる。引き攣った、聞くに堪えない笑い声だった。

「せいじゅうろうくん、ごはんまでに帰って来るかなぁ……」

ドアの向こうから聞こえた声がまた、俺の呼吸を止める。

うつくしくひかるものの嗚咽

2019.02.10