いけないことだと解っていても、それでも止まることなど出来なかった。一度加速してしまった感情は燃え尽きるまで進むしかないのだ。

街の小さな教会に仕える神父の十江ゆずがその男、赤司征十郎と出会ったのは、滝のような雨で街全体が煙っていた日のことだった。
いつものように眠る前の祈りを捧げていた神父は、背後のドアが小さく軋んだ音に俯けていた顔をあげた。振り返った先には哀れなほど濡れそぼった赤い髪の男が立っており、色の異なる瞳で神父をただじっと見つめている。
何の言葉も発さずしばらく二人はただ見つめ合い、幾ばくかの時が過ぎてからようやく神父は彼を奥の部屋へと招き入れた。
そこは神父の住まう一室である。
暖炉に火を灯した後、神父は男に服を渡し着替えるように言った。男は何も言わなかった。
着替えを済ませた男から濡れた服を受けとった神父は、彼に温かいスープを渡し、暖炉の前で温まるようにと言った。男はただ頷いた。
神父は男に何も聞かなかった。男も何も話さなかった。
そうして暫しの沈黙の後、ようやく男は口を開いた。一晩だけでもいいのでここに置いてくれやしないだろうか、と言った男の声は掠れ、どこか苦しげに歪んでいる。
やはりどうにも様子がおかしい。いや、こんな夜に訪れる人間に“普通”の人はいないだろう。何の事情もない訳がないのだ。神父は承諾し、静かに礼を言う男をじっと見つめた。
暖炉で木がはぜる音だけが部屋に満ちていく。スープを飲み干し空になった皿をテーブルに置いた男の動作に、神父は男が怪我をしていることに気が付いた。
脇腹を庇うようなそのどこか不自然な動きに神父は何も言わず席を立ち、大きな救急箱を持ってきた。ただ神父の動きを見つめていた男に神父は服を捲るよう告げたが、男は探るように瞳を光らせるだけで動こうとはしない。
押し問答を数度繰り返し、いよいよ神父が心配に顔を歪めた頃、しぶしぶ男は服を捲り上げた。
男の腹部に乱雑に巻かれた包帯は雨で湿り血が滲んでいる。包帯と傷口を押さえていた布の下から現れたのは明らかに何かで刺された傷跡であったが、神父は何も聞かなかった。男も何も言わずただ黙って処置を受けていた。
手当てを終え神父が道具類を片付けていると、男はありがとうと小さく微笑んだ。それは男がここに来て初めて見せた、人間らしい表情であった。


差し込む朝日で目を覚ました神父は、雨がもうすっかり上がっていることに気付いた。
昨晩泊まっていった男はまだ、微かに火の気の残る暖炉の前で毛布に包まって眠っている。起こさぬように気を付けながら二人分に増えた朝食の準備をしていた神父の耳に、何者かの声が聞こえてきた。
急いで礼拝堂へ向かうと、警官服に身を包んだ二人の男が立っている。どうなさいましたか、と問う神父に、警官は昨夜この近くの家で起こった殺人事件の話をしだした。容疑者の男を追っている、と言い見せられた写真は昨晩泊まっていった赤い髪の男に他ならない。
神父は心底驚き、事件で亡くなった者への祈りを心の中で捧げ、それから警官に何を聞かれても何も知らないとだけ答えた。何故そうしたのか、神父は自分でも分からなかった。己のこの行いが神に背く行為だということは分かっている。それでも神父は奥の部屋に男がいることを黙っていた。
警官が去った後、奥の部屋の中へ戻ると男が戸のすぐ側に佇みじっと神父を見つめていた。何故言わなかったのだ、と問う男に、神父はただ困ったように眉を下げ微笑んだ。
男が何か途轍もない事情を抱えているだろうことは分かっていた。昨夜の傷痕や、尋常ではなかった男の雰囲気から気付かぬ者はむしろいないであろうし、男の立場が“被害者”とされるものではないとだろうことも男の眼差しから漠然と感付いていた。
それでも神父は男を庇うことを選んだ。それがどうしてなのかは神父自身にも分からない。
男は心底不思議そうにただ微笑む神父を見つめ、それから神父と同じように少しだけ困ったように笑んだ。それは、二人の中の何かが繋がった瞬間でもあった。

それから二人は朝食を共に取りながら、なんてことない会話をし、まるで随分昔からの友人のように笑い合った。
神父の部屋にはひどく穏やかで、柔らかな朝の日差しにお似合いの時間が流れていた。戻るところなどとうに失っている男にこの部屋を使うよう神父が提案するほど、そしてそれを受け入れるほど、二人は急速に距離を縮めていく。
楽しく温かな日を幾日か過ごす中で、二人の間には友情や親愛とはまた違った感情が芽生えつつあった。それもまた、神に背くことである。
それでも、止まることは出来ない。転がりだした石のように緩やかに、しかし着実に速度を増して、ただ成す術もなく落ちていった。


* * *


男と神父が寝食を共にするようになってから二週間ばかりが過ぎたある晩のことである。その日も彼らが出会ったときと同じ、滝のような雨の日だった。
神父は祈りの最中に突然吹き込んだ風に驚き振り返った。見れば教会のドアは大きく開かれ、雨粒が中にまで入ってきている。風で開いてしまったのだろうか、と神父が立ち上がったその時、ドア口に黒いレインコートを着た人が立っていることに気付いた。
そこにいることを感じさせない希薄な空気を纏うその人に神父はまた驚きながらも、どうしましたと優しく声を掛けた。声に顔をあげたレインコートを着たその人は、まだ幼い少年である。じっとこちらを見つめる少年の淡い色の瞳の中に、その幼い容貌には似つかわしくないほどの燃える火を神父は見つけてしまった。
それは昔、一度だけ見たことのある目だった。ぞっとする程冷たい、しかし煮え滾る程熱い憎悪、それだけがある瞳だ。
息を飲んだ神父に少年は細く透けるような声で言う。あの男がここにいますね。断言するように言いながら、少年は一歩、教会の中へ入った。ドアが閉められ教会内は再び静寂を保つ。
遠い雨音に紛れてしまいそうな氷の声が続けざまに言った。あの男は僕の父と母を殺しました。少年の言葉に緊張に身を強張らせながらも神父はただひとつのことだけ考えていた。
男をどうやってここから、少年の目から逃がすかということ、ただそれだけである。それほどまで、神父は男を愛してしまっていた。神に背を向けてしまう程、目の前の罪から目を逸らしてしまう程。
しかし神は背を向けた者に必ず裁きを下す。
少年は徐に大きな黒い物を取り出した。違和感を覚えさせるほど不似合いなそれは、ひとつの拳銃であった。あの男を呼んでください、と昏く燃える瞳で少年は言ったその時、神父の背後でこつりと靴の音がした。
驚き、恐れ、神父が振り返った時にはもう全てが終わってしまった。
轟いた鋭い音は金色に輝いていた左目を撃ち抜き、神父が叫び駆け寄った時にはもう男の意識はここにはなかった。神父の腕に抱えられ左目に赤い花を咲かせた男は、どこか安らかな淡い笑みを浮かべていた。

その翌朝、教会内で二つの死体が見つかったという。

rewrite:2022.04.06