血に濡れたリノリウムを、汗を滲ませながら綺麗に磨いていく彼は一体今、何を考えているのだろう。
どこか虚ろなその眼差しはしっかりと目の前を見ているようで、遥か遠くを見つめているように煙っている。ここではないどこかを見つめ求めるその瞳が、ただ純粋に美しいと思った。あの瞳が小さな瓶の中で揺蕩う様を想像するといつもたまらなく欲しくなってしまう。
それくらい、彼はここにあるどのもの達よりも美しく、そして醜いのだ。
うんざりするほど肺に満ちた薬品の香りをゆっくりと入れ替えながら、瓶で埋め尽くされた棚にまたひとつ、新しい瓶を加えた。ラベルには日付と保存期間、それに依頼主の名前を記載してある。瓶の中で保存液に沈む指輪がついたままの薬指は、きっと恋人のものなのだろう。
憔悴しきった顔で切羽詰ったように用件を並べ立てた依頼主の顔を思い出した。金なら幾らでも払う、だからこれを隠してくれ。縋りつく様に言った男のくたびれたスーツからは薄く異臭が漂っていた。またひとつ厄介なモノを預かってしまったんだろう。

ゆず

床を掃除し終え、慎重な手つきで薬品を片付けていた彼が振り返る。

「そろそろ休憩しよう」

働き詰めはよくない。彼のためにも、ここにいる“宝物”達のためにも。

* * *

僕がここで彼の仕事のお手伝いするようになってもうひと月経つ。鼻を突くような薬品の臭いには慣れたけれど、まだこの大量のホルマリン漬けには慣れない。
棚の埃を払うといやでも視界に入る瓶の中身は様々だ。単なる物であったり、何らかの動物であったり、人間の一部分であったり。一番多いのは、人の一部分だ。瓶詰にされた綺麗な指輪のはめられた薬指を見て、ふと昔の出来事が脳裏を過ぎる。
―――ああゆず、わたしのかわいいかわいい……
かき消すように強く頭を振る。思い出してはいけない、あんな記憶。引き出しのずっとずっと奥のほうに押し込むように隠すのだ。はやく忘れてしまった方がいい。
目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をする。肺を満たす冷たい薬品の臭いが脳まで冷やしていくようだった。波打っていた感情が凪いでいき、いつもと同じ感覚が戻ってくる。
中断していた棚の掃除を再開し、半分ほど終わったところでドアの開く音が聞こえてきた。固い靴底が床を叩く音が近付いてくる。

「ここに居たのか、ゆず。悪いがお茶入れてくれるかい」

先程まで客の対応をしていた彼が、心底疲れたというような顔でぐるりと肩をまわした。
彼の仕事は、客の持ってくるあらゆる“モノ”を保管することだ。いや、標本といった方があっているのかもしれない。ホルマリンに漬けられたこれらを見る彼の目を思い出すと、蒐集という言葉も浮かぶ。うっとりと恍惚の滲む奥にはいつだって侮蔑が隠されていた。この標本たちを愛し、憎むその目を見るたび、一体彼はどういう感情でもってこんな仕事をしているのだろうと思う。
彼の後について執務室へと入る。応接室も兼用しているここで、彼は客とやり取りをしていた。
給湯室ですっかりと覚えてしまった彼の好きなお茶を淹れ、どうぞ、と彼の目の前に差し出したとき、視界の端に瓶が映った。テーブルの端に置かれたその小ぶりな瓶には、美しい青の瞳が浮かんでいる。まだ何のラベルも貼られていないそれは、さっきの客が持ってきたものなのだろうか。
ぼうっとそれを見つめる僕を見て、彼がくすりと笑った。

「綺麗だろう」
「……ええ」
「記憶なんだそうだよ」
「え?」
「この目。今日来た客の息子のものらしいが、その息子の記憶なんだと」
「記憶……」
「そう。だからこれを抜き取られた息子は、取られる前の記憶は全て忘れてしまったそうだ。面白い話だろう?」
「……そうですね」
「はは、ひどい顔をしているね、ゆず。……羨ましいかい?忘れることが出来る彼が」

にやにやと常にない意地の悪そうな顔で彼は僕を笑った。何もかも見透かしてしまうその目で、きっと僕の隠している全ても見抜いて知っているのだろう。知っていて、僕がどうしたいのかも全て知っていてそう尋ねてくる彼が憎らしくて仕方がない。
羨ましい。羨ましいに決まっている。簡単に忘れられるその人が、記憶を捨てられるその人が。

「お前も捨ててしまえばいいさ。捨てられないというのなら、俺が保管してあげるよ」

甘ったるい、ひどく優しい笑みを浮かべ近付いてきた彼から逃れる術はない。全てを見透かす赤い瞳が、じっとり覗き込んでくる。ゾッとするほど冷たい指先が、目元をなぞっていった。
捨てられるのなら捨ててしまいたい。彼に全てを預けて忘れてしまえたらどんなに楽だろう。でもそれが出来ないから、僕はまだこうして、ここでどうにもならないまま生きている。僕は何も持っていたくはないと泣き喚くくせに、手放すことさえもできない愚かな人間なのだ。
いっそ、無理矢理にでも抜き取ってくれたらどんなに良いだろう。

ゆずが望むなら、今すぐにでもそうしてあげるよ」
「赤司さん、……僕、は」

ひくりと震えた喉が、どうか助けてくれ、どうか救ってくれと紡ぎそうになる。忘れてしまえたらいい、けれどきっと、決して忘れてはいけないのだ。これが無くなれば、その瞬間に僕はきっとばらばらになって消えてなくなってしまうのだろう。
視界の端で薬品の中を揺蕩う美しい青が、醜く歪んで見える。忘れられずに奥底で眠り続ける思い出が、ずしりと重みを増した気がした。

どうしようもなく温い暗がりにて

rewrite:2022.02.06