夜中、突然目を覚ますことが依然よりも随分と多くなった。
今まで埋まっていた隣に、今は誰もいない。冷たいシーツを一撫でし時計を見上げれば、針は深夜の二時を指し示していた。ごろりと寝返りを打ち時計に背を向けて目を閉じる。
いなくなる前、彼が泣きそうな顔をして言ったことを思い出した。征十郎の隣は息ができないよ。震えた言葉の意味がよくわからなかった。俺は彼の隣でしか息ができないのに、彼は俺の隣では息ができないという。決定的な違いが俺と彼の間にはあったのかもしれない。
目を閉じても彼のことばかりが浮かんでしまい眠れない。こういうときはもう起きてしまった方が良い。下手に眠ろうとすると思い出して嫌な夢をみることになるだけだ。
夜が明けるまで何をして時間をつぶそうか。ひとまず何か淹れようとベッドから下りキッチンへと向かう。
冷え切ったフローリングがベッドの中であたたまっていた足先に痛みを与えてくる。そういえば、夏になるとよく彼はフローリングの上に寝そべっていた。この方が涼しい、なんて言って。
ケトルの電源をつけ、ソファに身を沈める。ぼんやりと電源のついていない真っ黒なテレビを見つめた。そういえば、彼は度々ぼうっと何もついていないテレビの真っ暗な画面を見つめていた。何かを考えていたのか、それとも何か見えていたのだろうか。深く息を吐いて目を閉じる。
カチン、とケトルのスイッチの音に何かが浮かびかけた。けれどそれは形を成す前に溶けるように消えてしまう。追いかけることもできず、諦めて体を起こした。
確か紅茶がまだあったはずだ。この前、彼が好んでよく飲んでいたブランドの茶葉を見つけて思わず買ってしまったから。俺自身は紅茶よりもコーヒーの方が好きだけれど、今は彼が好きだった紅茶を飲みたい。爪先に力を込めながら、彼が紅茶を淹れている姿を思い出す。
なんだか、とても大切なことを忘れてしまっているような気がした。


ぼんやりとしている内に夜が明け、部屋の中は朝日に照らされていた。
今日はどうしようか。彼との思い出が詰まっている手帳を引っ張り出し、ブックマーカーの挟まる場所を開く。そのページには覚えている限りの彼と行ったいくつもの地名や駅名、場所名を記していた。その地名たちを取り消すように引いた赤い線を眺める。もう殆どこのページは赤い線で埋まっていた。暫く休みをもらったから少し遠出をしてみようかと、ページの下に書かれた駅名と旅館の名前を指でなぞり、身支度を整える。物なんて殆ど入っていない軽い鞄を肩にかけ、しばしの間部屋に別れを告げた。
コンクリートを叩く足音は一人分しかない。隣に温度は感じられないし、開いた左手は開いたままだ。でもなんとなく隣にいるような感覚が蘇って、切符を二人分買ってしまった。
冷えた風が首を撫でていく。今日はまたいつになく寒い。
改札を通り過ぎてやってきた列車に乗り込み、ほとんど人気のない車内に懐かしさを覚える。彼と二人でこの列車に乗ったときも、乗客はほとんどいなかった。ドアの近くにある席に腰を下ろし、窓の外を眺める。
そうっと目を閉じれば、鮮明に映る彼の姿に溜め息がもれた。二人だけの初めての旅行にはしゃぐ彼はとても楽しそうに笑っていて、俺は小さな子供みたいな彼に呆れたように笑って。隣に感じるわけのない温度を感じて、肩に感じるはずのない彼の重みを感じて、手のひらに爪が食い込む。はしゃぎ疲れた彼が俺によりかかって眠ってしまったあの日、俺も彼もとても幸せだった。
彼は今どこにいるのだろう。少しだけでもいいから話がしたい。列車が動き出すのを感じながら、何度も心の中で彼の名前を呼んだ。


* * *


久しぶりの我が家は入るのを躊躇うほど冷え切っている。寒さに弱い彼はいつも寒い寒いと悲鳴をあげながら俺に纏わりついて、部屋が暖まるまでずっとくっついていた。
冷えたフローリングを踏みしめ、電気をつける。点滅する蛍光灯にもう一度スイッチへ手を伸ばしたとき、影が見えた。誰かの影。ぽつりと寂し気に佇む人影は、点滅の間に消えてなくなった。

大和……?」

ひゅうひゅうと息が乱れ喉が鳴る。気持ちばかりが急いて安定しない足取りで影を追いかけた。あの先には彼の部屋が、彼が使っていた部屋があったはずだ。掃除以外では入れない、入ることの決してないその部屋は、まだ彼のもので溢れている。
引き攣る喉でもう一度彼を呼んで、そうっと閉ざされた戸を押し開いた。一際冷えた空気が溢れ出し纏わりついてくる。ぱちんと電灯を付けた一瞬、視界の端を影が過ぎっていった。は、と顔を向ければ彼のお気に入りの服で溢れたクローゼットがある。
震える指でクローゼットのドアに触れた。固く閉ざされたそのドアを恐る恐る開き、息が漏れる。
ああ、なんだ、こんなところにいたのか。

額縁の中の密か

rewrite:2022.02.14