だが残念ながら、これは現実に起きたことなのである。現実は小説より奇なり、だ。
「おい」
一週間前、うちの可愛い可愛いふあふあもこもネコチャンだった征十郎が、朝起きるとわりと筋肉質なびっくりするほどイケメンな男になってしまっていたのである。朝起きて横に見たこともない、そこにいるだけで金銭の支払いが発生しそうなレベルのイケメンが全裸でいた時の俺の気持ちを考えてほしい。普通に絶叫したし、警察を呼び掛けた。
俺の声に目を覚ましたその男に、一体何処のどいつだどうやってこの部屋に入った何故同じ布団で寝ている!そして何故全裸なのだ!と布団の傍に転がってた俺の筋トレグッズである鉄アレイを握りしめながら聞けば、驚いたように目をしぱしぱさせながら自分は征十郎であると言うではないか。何を馬鹿なことを!と思ったがいつもなら俺が起きるまで傍にいるはずの征十郎は寝室のどこにもいないし、呼んでも来ないし、よくよく見れば男の目は鮮やかな赤と美しい金をしている。うちのきゃわいいネコチャンも赤と金の世界で一番美しいオッドアイの持ち主だった。
いやいやいやそんなまさか、とやはり俄かには信じ難く更に色々問い詰めてみれば、征十郎しか知らないことも知っているではないか。そうなればもうこの非現実を認めざる得なかった。最後の一押しは、驚いた時の目のしぱしぱ加減が征十郎の目のしぱしぱと激似だったことである。
ああ、名前を呼んだらにゃあにゃあ可愛く鳴いてすぐにやってきたあのかわいい子が、精巧な彫刻ばりに整った顔面の男になってしまっただなんて。
「おいっ」
ぼふん、と布団の上から乱暴に俺を叩く手に逃避しかけていた意識が戻る。
眼を開ければ、少し苛立ったご様子の男が布団の横に座りこちらを覗き込んでいた。赤と金の瞳がくっと細まり不機嫌です、と如実に訴えてくる。
「休みだからっていつまで寝てるんだ」
あの、この世の何よりも可愛いらしいネコチャンだった征十郎が、こんなビビるほどイケメンなふあふあでももこもこでもない筋肉質な人間になるだなんて誰が想像出来ただろう。
確かにとっても綺麗な顔をしている子だったし、毛並みもつやつやふあふあの十人に聞けば百人くらいは美人ですって言うような子だったけど、こんな、時代が違えば祀られてそうなイケメンになるなんて。
「おはよ……」
のそりと身体を起こし、征十郎の頭をわしわしと撫でる。
起きるとまず征十郎を撫でるというのがもう日課となって身に染みついてしまったせいか、猫じゃなくなった今もそれが抜けずよしよしと撫でまわしてしまう。征十郎の髪の質感が、猫の時と同じつやつやふあふあなのもいけない、と俺は思っていた。ついつい触りたくなる魔性の質感だし、俺に残されたわずかな癒しふあふあなのだ、触ってしまうのも仕方がない。
まあ征十郎も何も言わないし、というか気持ちよさそうなので問題はないだろう。少し嬉しそうにしている征十郎は猫だった時に似ていてわりと可愛い、と思ってしまうあたり俺も色々と駄目かも知れない。
こんな自分と大して変わらなそうな年齢の男を可愛いだなんて。でも可愛いと思ってしまうのだ。完全に飼い猫フィルターがかかっている。かつての森羅万象におけるかわいいの頂点に君臨していたネコチャンだった頃と同じ仕草をされるから、脳が誤作動を起こしてしまうのかもしれない。
「お腹が空いた」
「今作るから……何がいい?」
「豆腐」
「またかよ」
猫の時から豆腐が好物だったけれど人間になってからそれに拍車がかかったように思える。毎食豆腐を出してる気がするし、付随して出汁や鰹節の消費が異常に激しくなった。
猫らしく魚も好きだが、やっぱり豆腐の方が食いつきがいい。
「冷奴がいい」
「はいはい」
「鰹節たくさん乗せて」
「わーってるよ」
一番好きな豆腐料理は鰹節鬼盛りの冷奴だ。次に湯豆腐。ただし当然のごとく猫舌なのでぬっるい湯豆腐であるが、大喜びで食べる。豆腐田楽も揚げ豆腐も好きだ。先日、豆腐で作ったよって豆腐ハンバーグを出した時は疑問符を飛び散らせながら食べ、肉の味しかしないと鼻に皺を寄せていたので豆腐なら何でもいいわけではないようだった。
布団を片付けてキッチンへ向かう俺の後を征十郎もついて来る。俺が動くとぽてぽて後ろをついて回る辺りは猫の征十郎と全く何一つ変わっていなくて、なんだか笑ってしまう。やっぱりこの男は俺のかわいいかわいいネコチャンなのだ。
猫時代よりも金が掛かるが、何だかんだ俺もこの生活を楽しんできてるなあ、と朝食の準備をしながら思うのであった。
* * *
元猫だからか、征十郎は聴覚が人間よりもずっと鋭敏なようだ。
窓から見える真っ黒な雲にああ雷でもくるかな、と思っていた矢先、お気に入りのふあふあクッションを抱えてごろごろしながら将棋番組を観ていた征十郎がぱっと起き上がった。雷の鳴る音でも聞こえたのか、じ、と固まったまま窓の方を見ている。
そういえば征十郎は雷が苦手だった。元々大きな音は苦手なようだったが、雷のあの閃光も揺れるような感覚も酷く嫌いらしい。いつも雷が鳴ると俺のところまですっ飛んで来ていたし、鳴り止むまで絶対に傍を離れなかった。
目の前でぐっと背を伸ばし、構える姿勢の赤い頭にぴんと警戒するように張った耳が見えるような気がした。こういうのを見るとネコチャンだなあとしみじみ思う。
やっと俺の耳にもゴロゴロと音が聞こえてきたな、と思った途端パッと辺りが白く光った。
「お!?」
光ったなと思った瞬間、目にも止まらぬ速さで征十郎が突っ込んできた。
猫のような身軽さと弾丸の如き勢いで俺の座るソファに飛んできた征十郎は、ズァッと俺とソファの背もたれの隙間に刺さるように挟まってくる。このソファはまあぎりぎり二人用みたいなサイズなため寝転がられると非常に狭い上、お気に入りのふあふあクッションごと突っ込んできているのですごい場所が圧迫され、俺が落とされそう、というか半分落ちてる。
隠れたいのかもしれないが、もうあのちっちゃくてかわいいネコチャンではないので、俺の体の幅分しか隠れられていない。ほぼ丸出しで横たわっている様は突っ込んできた勢いも含めて冷凍マグロ同然である。
「ちょっと征十郎さん、クッション邪魔」
「……」
「おーい」
返事がない。まあ冷凍マグロなので返事は出来ないのだろう。可哀想だし征十郎用のもこもこタオルケットでも取って来てやろうと腰を上げたが、グッと下に引っ張られてまたソファのふちに逆戻りした。
振り返って見れば征十郎がクッションを抱く手で俺の服の裾も握りしめている。血色の悪い真っ白な顔でぱちぱち機械的に瞬きしているのはなかなかに怖い。
「お前のタオルケット取ってくるだけだって」
「いらない」
光り音が鳴る度に怯えたようにきゅっと目を閉じるのが可哀想で、宥めるように頭を撫でてから強張った体を引っ張り起こす。コチコチの体を引っ張って立ち上がらせ、そのまま背中を押して寝室へ向かった。
また俺の服の裾を握り締めだした征十郎を引っ付けたままカーテンを閉めて布団を敷く。人間になってからは征十郎用の布団も用意しているが、今は俺のだけでいいだろう。
征十郎は俺が布団を敷くや否や流れるように抱いたクッションごと布団の中へ潜り込んでいった。布団の中だからリビングよりも音はマシだろうし、光も見えないから安心だろう。
俺は録画したまま放置していた映画でも観よう、と寝室を出ようとすると布団がパッと捲れどこかきょとんとした顔の征十郎が顔を出した。
「どした?」
「どこ行くんだ?」
「どこってリビングだけど」
「なんで?」
なんで?なんでって何で?
首を傾けた俺につられるように征十郎も首を傾げた。と、そこではたと思い出す。
征十郎は猫の時、いつも鳴りやむまでぴったり傍にくっついて、なんなら膝の上で丸くなってもこもこタオルケットに包まれた上、俺にずっと撫でられていた。人間になったから猫の時と同じ対応はしていないけど、もしかすると同じようなことを求められているのだろうか。
「一緒に寝た方がいい?」
「……寝ないのか?」
「あ、うん、寝る寝る」
しおしおと下がった耳が見え、条件反射で頷いてしまった。
また布団のそばに戻ると征十郎はまた中へ潜っていく。一緒に寝てっていうわりには真ん中から避けないのほんとにネコチャン。俺の布団がでかくて良かったな、と思いながらも落ちないぎりぎりに寝転がった。
「征十郎、もちょっとそっち行って。俺はみ出そう」
「大和がもっとこっちにくればいい」
「はいはい、くっついててってことね」
猫さながらクッションを抱えて丸くなった征十郎にくっつくと、もぞもぞとクッション団子がほどかれ俺の胸辺りに頭をくっつけてきた。無言の撫でてアピールである。ネコチャンのわりには犬みたいに甘えてくるのがうちの征十郎だったな、としみじみ思いながらわしわし撫でて背中を叩く。
しばらくそうしているうちに征十郎の呼吸は深く穏やかなものへと変わっていった。ぽかぽかした体温とくぐもって聞こえてくる雨と雷の音にだんだん俺も眠気を誘われ、目を閉じる。
せっかくの休みでやりたいことはいろいろあったが、まあ、こんな日もいいだろう。
ひとりふたり色どり
rewrite:2022.02.04