震えた息がドアにぶつかり、ドアが小さく不愉快だと軋んだ声をあげた。はっと息を飲んで身を縮めるけれど、ドアの声はもう周囲に聞こえてしまっていたのだろう、白衣を着た人たちが一斉に振り返る。ひどく冷ややかな、色のない機械じみた目が次々に全身を突き刺していく。
ああ、どうしよう、見つかってしまった。
今すぐ逃げ出したいのに震える足はぴったりと地面に吸い付き離れない。眼鏡を掛けた男の人が何かを言っているけれど、耳鳴りが邪魔をして何も聞き取れない。
恐ろしいほど白い白衣に包まれた誰かの腕が伸ばされて、触れる寸前、ふっと足が浮き上がった。
「待ちなさい!」
足に引き摺られるように背を向け走る。視界を流れていくものは白ばかりで、どこを向いても白しかない。
どこを走っているのかなんてわからぬまま、ただ走って、いないあの人の背を探した。
* * *
誰かの声に息を飲んで、目を覚ました。ひどく汗をかいている。
夢を見ていたような気がするけれど、どんな夢だったのかよく覚えていない。でも、怖い夢を見ていた。まだ煩く鳴る心臓と冷たく滲む汗が、よくないものを見た証拠のように思える。
一体どんな夢だったのだろう。ぼんやりと考え体温を根こそぎ毟り取っていくベンチに頬をくっつけたまま、もう一度目を閉じる。
ゆっくり息を吸って、吐いて、すうっと引き摺られる感覚に身を任せた。意識が沈んでいく。
けれど消えるその一瞬前、ふいに後方で誰かが囁くような声で死んだんだって、と呟いた。
「ええ、本当に?」
「即死だって……」
「やあねぇ、まだ十四歳だったんでしょう?」
「虐められてたみたいよぉ」
わざとらしい声で、可哀想に、と口々に吐き出すのが聞こえて、意識が引き戻される。
どんどんと気分が悪くなってふるりと身体が震える。ここは暖かいけれど、とても寒い。部屋に戻るか、戻らずに彼が来るまでここで待っているか、どちらにしよう。溶け出すようにずるずるベンチから床へ腰を下ろしながら、時計を見上げた。もうすぐ来る時間だ。入ってきたら必ず此処を通るから、きっと彼なら見つけてくれる。早く来ないかな、とベンチに頭を預け目を閉じた。
吐いた息が舞い上がっていくのを想像しながら、もう一度ゆっくりゆっくり深呼吸をする。肺の中が綺麗になっていく感覚がして、ふわりと体が浮いていき何も聞こえなくなる。あとは、もう流れに身を任せるのだ。漂うようにふわふわと飛んで、どこまでも泳いでいける。
「水緒」
浮き上がっていた足に蔦が巻き付いて、じりじりと優しく優しく引き摺り下ろされ地面に足がついた。
目の前にしゃがみ込んだ彼が、じっと目の中を覗き込んでいる。
「こんなところで寝てたの?」
「すこしだけ……」
「体が痛くなってしまうよ、ほら、立てる?」
ぼうっと彼を見つめていると、困ったように、けれどどこか嬉しそうに「全く水緒は」なんて言って彼は僕を抱えるように持ち上げた。
温かい彼の体温に包まれていると安心するけれど、同時にひどく不安になるときがある。この体温は本物だろうか、と。もしかしたら偽物なんじゃないかと、時々思ってしまうのだ。
* * *
扉の前をいくつも足音が通り過ぎ、低い話し声があちこちに飛び交いぶつかって落ちていった。次第に荒くなる自分の呼吸を手のひらで覆って遮り、見つかってしまわないように必死に身を隠す。
ああ、だめだ、だめ、聞こえてしまう。耳鳴りがどんどん聴覚を奪っていって、音が遠ざかっていく。その中に、真っ直ぐこちらに向かってくる甲高い靴の音を見つけた。聞きなれた硬く刺さるようなその音は、彼の足音だ。
震える指でそっと鍵を開け、ドアを押すと、分かっていたように外から大きく開かれる。
「ああ、水緒、こんなところにいたのか。随分顔色が悪いけど大丈夫かい?立てる?」
騒がしいが一体何があったんだ、と僕の前に屈み宥めるように背を撫でながら、心配そうな目で覗き込んでくる。嗅ぎなれた彼のにおいに安心してほうっと息を吐いたところで、はたと気付いた。
違う。
触れ合った薄い皮膚越しに感じる温度が、僕の知るものではなかった。
これは彼じゃない。じゃあこの人は一体誰だ。
「水緒?」
心配そうな振りをして見つめてくる顔は不気味に歪んで見える。彼の振りをした誰かが、にたにたと笑って手を伸ばしてくる。
「ぁ、あ、や、やだっ」
纏わりつく手を振り払って逃げるように身を引く。助けて、といつだって僕を見つけて助けてくれる彼を求めども意味はない。だって、僕が知る彼はきっともう、どこにもいない。
* * *
ゆっくりと撫でてくるあたたかい手に目を開ければ、柔く細められた赤い目が優しくきらきら光っているのが見えた。一体いつの間に来たんだろう。
なんだか、とても恐ろしい夢を見ていた気がするけれど、夢なんて見ていない気もする。小さく息を吐いて、隣に腰かけた彼に身を寄せた。
ここのベンチは少し冷たすぎて、体温を根こそぎ奪われていくような感覚が恐ろしくなる。そう思うならこんなところにいなければいいのに、気付いたらこのベンチにいるのだ。いつもはたと気付けば僕はこのベンチに横たわっていた。
「寒い?」
「少しだけ」
「なら、部屋に戻ろう」
彼の手に引かれながら歩いていた時、カウンター前で集う看護婦さんたちが視界に入った。
「どこの学校?」
「ほらあの駅の近くの大きいとこだって」
「え~!進学校じゃない」
「虐めなんてどこでもあるんじゃないのぉ?」
わざとらしい哀れみがたくさん詰まった声で、可哀想よねえと吐き出して笑っている。酷く嫌な気分になって片手で耳を覆い目を閉じた。
意識が彼の声と、彼と繋がる指先に寄っていく。あれ……?
ぱっと目を開ける。すぐ目の前にある背中も、爪の形も、何もかも見覚えはある。けれど、なんだか、違う気がした。
温度がなんとなく違うような、少しだけ声が違うような、僅かに目付きが違うような、ほんの僅かなズレを感じるのだ。こんなに彼の手はあたたかくて、こんなに彼の声は低かっただろうか。彼の目はこんなに透明だっただろうか?
ああ、どれもこれも偽物に見える。
「征十郎くん?」
振り返った彼の向こう、遠くの僕の部屋から誰かがこちらを覗いていた。
* * *
迫りくる腕に喉が痙攣する。捕まってはいけない。絡みつく手を振りほどいて走るけれど、いくら走れども白い壁は続き長い廊下は終わらない。此処は一体何処だろう、僕の知っている場所だろうか?
自分の荒い息とは別に、すぐ耳元で誰かの呼吸音がする。小さく喉の奥で笑うその声は、聞いたことのあるようなないような、知っているような知らないような、よくわからない誰かのものだった。
その向こうから響く足音があの恐ろしい顔をした人のものだとしたら、この笑っているのは一体誰なのだろう。
「知ってるくせに」
ずるりと足から力が抜け、あ、と思ったときにはもう冷たい床に倒れ込んでいた。僕を誰かが嘲笑っている。
「何処に行くつもり?」
「外に、彼に会いに行く」
「もういないのに?」
「いるよ」
「いないって自分で言ったじゃないか」
「違うよ、彼はいなくなったけど、でもまた、いるんだよ。ううん、違う、呼ぶの、これから」
だってそう、書いてあったのだ。
急に腕を掴まれてびくりと体が震える。ハッとして見上げれば心配そうに顔を歪めた彼が立っていた。色違いの目が蛍光灯を反射し、冷たく光りながら僕を貫いている。
上がった心拍数に同調して乱れた息に彼が眉を寄せながら大丈夫かと囁いた。それに頷きながら周りを見回す。見慣れたカウンターとベンチ、いつの間にこんなところに来てしまったのだろう。彼はいつからここにいたのだろう。上手く記憶が繋がらない。
キン、と耳鳴りがしてぐにゃりと視界が歪んで、不安定に揺れ動く。ゆっくり息を吸って目を閉じる。それから静かに少しずつ息を吐いていって、目を開けた。
「水緒、本当に大丈夫か?」
「うん」
「……早く部屋に戻ろう」
ほら、と彼に半ば支えられるようにしながら歩き始めた時、視界の端にカウンターの奥で集う看護婦さんたちが映った。
「見つけたのって同じ学校の子だったんですって」
「え、見つけたってまさか」
「ウソぉ!」
「その子、お友達だったんですって」
気味の悪い優しい声で、可哀想よねえと口々に吐き出す様にぞわりと悪寒が走る。そこには好奇心で歪んだ笑みが強く混じって吐き気のする色が散っていた。ここはいつも嫌なものに満ちていて、うまく息が出来なくなる。
気持ち悪さに耐えられずにふらついた身体が、彼にぶつかった。上手く力の入らない足でなんとか体勢を立て直し、謝ろうと仰ぎ見た彼の瞳の奥に何かが見えた。
「あれ……?」
世界が速度を上げ回っていく。彼に掴まれた腕から違和感が拭えない。彼の背後に延々と続く廊下に、奇妙な既視感を覚えた。
一つだけ開け放たれたドア口に誰かが立っている。喉の奥で鳴らしているような低い笑い声が、静かに、
「どちらへ?」
彼の皮膚が触れている場所がざわりと波打った。違和感は増していくばかりで、遠くで聞こえる笑い声は徐々に音量を増していく。
こんなに煩いのに、笑い声なんてまるで聞こえていないように彼は立ち止った僕を心配そうに見ているだけだ。見上げた彼が口を開き少しだけ息を吸って、ゆっくり僕の名前を呼ぶ。
「水緒?」
その感触は、彼のものとは全然違う。気付いてしまえばもう、違和感しか残らない。
「ち、違う、」
これは彼じゃない、一体誰だ。透けた瞳の奥がにたりと、ああ、大きな口を開けてけたけた笑って何もかも飲み込もうとしている!
もう何度mお経験したことがあるような、気持ちの悪い冷たさが背筋を這う。耳鳴りが脳を貫いて、その甲高い悲鳴のようなその音に記憶が掘り起こされていった。
どうして忘れていたのだろう、あんな恐ろしいことを。連なる文字と何かを記した不気味な表。
ああ、そうだ、もう、彼はいないのだ。どうして忘れていたのだろう、ついさっき、見たばかりだっていうのに。
張り付く腕を強く払い、何かを言いながら捕まえようと迫る手をすり抜けて廊下を走る。
逃げなくてはならない。あの手に捕まってはいけない。誰か、誰か、「呼べばいい」耳鳴りの合間を縫って声が聞こえた。誰を呼べというのだ、「彼を」どうやって、「知ってるくせに」
「水緒!」
聞きなれた彼の声に階段を上る足を止めた。振り返った先には心配の色で顔を歪め、息を整える彼がいる。
「征十郎くん……?」
優しく笑い頷いたその人は確かに彼のように見えるけれど、違う。これは違う人だ。だって僕はまだ、呼んでない。
騙すようににこにこ優しく笑って近付くその体を強く押した。そのまま階下へ落ちていくように、思い切り。驚いたように丸くなった目が蛍光灯を反射してきらきら光る。
「あれ?」
一瞬触れた温度は馴染み深いもののように思えた。けどあれは違う人で、でも、あれ?
ぐにゃぐにゃ歪み滲む視界の端に、誰かが映る。
「水緒」
ひやりとする、その恐ろしい温度に凍り付く。
「なんで、」
一体出口は何処だ。
想像の証明
rewrite:2022.04.16 | BGM:白黒病棟 / 歪P