十六歳の誕生日、僕の唯一無二にして世界の全てであった皇一郎が死んだ。
服毒自殺であった。
ベッドの上で、眠る様にして息を止めたその姿は、本当にただ眠っているだけのように見えた。
なかなか起きてこない皇一郎を起こそうと入った部屋の中に漂うなんとも言えない、重苦しく、仄かに甘い匂い死の、腐敗の匂い。それを感じ、ベッドの上に横たわる皇一郎を見た途端、僕は彼がもうこの世のものではなくなってしまったのだと悟った。彼は僕を置いていってしまった。
でも、本当はこうなるだろうことは知っていたのだ。
彼はずっとずっと苦しそうにしていた。何でもないふうに微笑みを浮かべ、そつなく他人と接し、極々平然とした仕草で日々を過ごしていたけれど、その裏でいつだって苦し気に息を吐き、今にも死んでしまいそうな顔をしていたことを、僕は知っていたのだ。
彼は、皇一郎は、生きるということそのものが苦痛である人間なのだ。この世に存在する全てが己の身を蝕み蹂躙する悪夢でしかない。彼はそれを十六年の間耐え、そして耐えるのを止めた。
十六歳を迎えたら、皇一郎は父の後継ぎとしてその仕事を手伝うこととなっていた。今まで以上に接する人間は増え世界も広がり、悪夢はその力を増すだろう。彼はもう、それに耐えられないと悟ったのだ。
だからきっと、ずっとずっとずっと、長い間用意したまま眠らせていた瓶の蓋を開けたのだ。
「征十郎、おやすみ。よい夢を」
それが彼の最期の言葉だった。
優しく、たっぷりの愛を込めて僕の頭から頬をひと撫でし、目を細めて薄い笑みを見せてから彼は自室へと入っていく。それが、僕が最期に見た姿だ。
彼は心底、何の偽りもなく僕のことを愛してくれていた。苦痛でしかない日々の中で、僕と共に過ごす時間だけが彼が穏やかに過ごせる時間だった。僕の唯一が皇一郎であるように、皇一郎の唯一も僕だったのだ。
父の仕事を手伝えば、僕と過ごすようなそんな時間など取れなくなる。それもまた、彼を死に追いやることのひとつであったのではないだろうか。
皇一郎は自殺ということで死因解剖は行わないと父は言い、皇一郎は美しいまま家へと帰って来た。きっと父はすぐに葬儀の手配をし、彼を小さな壷に収めてしまうのだろう。
僕はすぐにでも行動を起こさなければならないかった。現在僕が使えるだけのもの全てを使って、何としてでも僕は僕の大切なものを守らなければいけない。
「皇一郎、少しだけ待っててね」
薄く死に化粧の施された唇は、ひどく冷たかった。
* * *
皇一郎に代わり僕が後継ぎとなることが決まり、今まで以上に忙しい日々の中、僕はありとあらゆる伝手と人脈を使い僕の求めるものを探した。そうして見つけたのだ。それがヨーロッパ、特にイギリスでひっそりと、けれど脈々と受け継がれていると聞いたとき、僕はこれだと確信したのである。
死者蘇生技術。
まやかしのようではあるがしかし、それは実際に存在し、そしてそれにより動く死体はあった。まだ魂の実装にまでは至れていないものの、今までと同じく動き生活する。それは最早屍者ではなく、生者と変りないのではないだろうか。
行うためには莫大な費用が必要であると聞いた僕のやることは、ただひとつ。より効率よく多くの金を稼ぐ、ただそれだけだ。
そうして五年もの月日を費やしてしまったものの目標額まで到達し、僕は皇一郎を連れてイギリスへと渡った。渡航したその後のことはもう全て手配済みで、あとはただ、待つだけだ。
「いやはや、日本からわざわざいらっしゃるとは……どなたから聞いたんですかね、うんうん、それにしても……これは素晴らしい……良い仕事をなさった方がいたものだ……」
独り言ちるように話しながら教授は『装置』の前に座らされた皇一郎を見ていた。
液体窒素の中で眠っていた皇一郎は、あの頃のまま時を止めている。神々しいまでの美しさは少しも損なわれることなく、柔らかな白い頬も淡い唇も、何一つ僕の記憶の中の姿と変らない。まだそこかしこに幼さの残るあどけない表情は穏やかで、夢でも見てるように感ぜられる。
教授は器具のひとつを手に、僕を見た。どこか迷いのある、けれどこれから起こることへの期待に爛々と光る眼で。
「本当にやるかい?」
「ええ」
「肉体的に生き返っても、魂が戻るかは分からない。前と同じ存在であると断言することは私たちには出来ないのだ。それでもやるのかい?」
「ええ。僕はただ、彼の瞳を見たいだけなんです。もう一度彼に、おはようと言いたい。もう一度、皇一郎に抱き締めてもらいたいだけなんだ」
この先に待つ僕と彼だけの閉じた夢を思えば、自然、笑みが浮かぶ。ああ、ようやっと僕は、ここまで来たのだ。
* * *
その屍体は、彼自身が今まで見てきたどの屍体よりも美しいものであった。白々とした頬や色の薄い唇は屍のそれなのに、それはどこまでも瑞々しく、生々しく、まるで生きているようにさえ思えた。何か得体の知れないものが詰め込まれたモノに人間の皮を被せている、そう思えたほどだ。
そうして術を施され目を開いたそれは、見目こそまさしく生者であった。けれど開かれた煌く瞳は伽藍洞のまま何も映してはいない。今にも音が零れてきそうな唇は柔く結ばれたまま開かれることはなかった。
瞬き、命ぜられれば機械的に動く。けれど意思を持つことはない人形。術は半ば成功し、半ば失敗に終わったのだ。
しかし依頼主の青年は多いに喜んだ。青年は目の前の屍体とよく似た美しい花の顔をふわりと甘く綻ばせ、子供のように無垢な笑みを見せながら彼に感謝の言葉を尽くした。彼は心の内で失敗を悔やみながらも青年の言葉に答えようとその目を見、ゾッとした。
何と恐ろしい目で笑う男なのだろう。
術が始まるその前まで凛々しく、力強く輝いていた燃える瞳が腐り落ちていく。澱み、爛熟しきった果実のような吐き気を催す、重苦しくも仄甘い腐敗の臭いがしそうな瞳だった。それが今、彼を見つめていた。なんという変貌であろうか、まるで死者そのものの眼だ。
「ああ、本当にありがとうございました、教授。……おいで、皇一郎」
恐れに動くことの出来ない彼の横を、ふらふらと屍体が歩いていく。
「さあ、僕らの家へ帰ろう」
恭しく屍体の手を取った青年は、至極幸せそうに美しく笑んでいた。
いつしか崩れゆく箱庭のなか
rewrite:2022.02.16 | ほんのり「屍者の帝国」風味、視聴記念に