お気に入りのガラス細工を壊してしまった時か、一番好きな写真集を破ってしまった時か、とても好きだった人が死んでしまった時か。 きっと僕は、どこかで道を踏み外した。
* * *
桜の木の下でただぼんやりと落ちていく花びらを眺めていた彼に声を掛けたのが始まりだった。
淡い桃色を全身に浴びながら佇む彼の、その静かな横顔にきっと惹かれたのだろう。底知れない深淵を思わせる瞳に見つめられたとき、何故か自分の死を悟った。
どうしてか彼に見つめられると、彼の隣にいると、少しずつ何かが搾取されていくような気分になる。何かとはおそらく、生だとか命だとか名付けられたものだ。
彼の隣にいるようになって分かったのは、彼が今までたくさんの人間から多くのものを奪ってきたのだろうということである。彼から漂う冷たい空気と、その空気に滲んだうっすらとした腐敗臭のような、死臭のような、ぞっとする臭いがそう感じさせるのだ。
彼は、薫は、きっとそこにいるだけで多くのものを壊してしまう人間なのだろう。それも、意図して。
「あ、ねえ征十郎くん」
「なに?」
「コンビニ寄ろうよ」
繋いだ手をゆらゆら揺らして遊びながら薫が笑った。少し先にあるコンビニを指さし、あそこに入ろうと覗き込んでくる。
「いいよ。何か食べるのか?」
「ん、チョコまん食べる」
「……美味しいの?」
「美味しいよ、甘くて。征十郎くん甘いの苦手?」
「いや」
「じゃあ一緒に食べよ、美味しいから」
ね、と首を傾げながら笑う姿は純粋に可愛らしいと思う。無邪気に僕の手を引いて、はやくはやく、と急かす薫に頬が緩んでつられるように僕も笑った。
急ぐ必要もないのに半ば駆け込むように店内へ入る。飲み物も買うつもりなのか手を引かれるままパックジュースの棚の前へ歩いて行った時、どれにするか迷うようにうろうろ視線を動かしていた薫が動きを止めた。商品を見ているわけではないぼんやりとした瞳がただ宙を見つめている。
「ふふっ」
少しして、潜められた小さな笑い声が聞こえてくる。
薫は時々、ぼんやりと何かを考えこんでは小さな笑い声と共に戻ってくることがあった。楽しそうな、どこかうっとりとした顔で目を細め笑む彼は、あの初めて彼を見た時と同じ空気を濃く纏っている。冷たく仄甘い、悍ましいあの臭いはじわじわと侵食してこちらを飲み込まんとしているようだった。
この臭いを強く感じるときは薫の中で、薫の想像の中で誰かが死んだ時だと僕は知っている。
その“誰か”は、僕だ。いつだって、出会ったときからずっと、薫の中で死に続けているのは僕なのだ。一体これで何度死んで、一体何度彼の中で殺されるのだろう。
きっと、僕が本当に死んでしまうまでこれは続くのだ。
* * *
今日は征十郎くんが泊まりにくる。明日の部活が休みになったから、前々から約束していた「僕の手料理を振舞う」というのを果たそうというのだ。
いつも通り体育館外の階段に腰掛けて彼が出てくるのを待ちながら、何を振舞おうかと考える。
僕が作れるもので彼が好きそうなものがいいけれど、何がいいだろう。湯豆腐が好きらしいけど、湯豆腐だけというのもなんだか作り甲斐がない。帰りにスーパーに寄って、そこで相談しながら決めるのが一番いいかもしれないな。
静まり返っていたドアの向こうでさざなみの様にざわめきが広がり聞こえ出す。徐々に声の波が近付きだしドアが大きく開けられた。
見知った顔に挨拶を返しながら何人も見送り、大群が過ぎ去ってしばらく、ようやく待ち人が現れた。
「待たせたね」
遅くなってごめんと優しく僕の頭を撫でながら征十郎くんが柔く目を細めた。征十郎くんはよく僕の頭を撫でる。髪がふわふわで触り心地が良くて気持ち良いらしい。
今までもそれなりにきちんとお手入れしていたけれど、そう言われてからはより一層お手入れに力をいれていた。僕だって征十郎くんに撫でられるのは好きなのだ。
帰ろうと差し出された手を握り返しながらつい先程まで考えていた夕飯ことを伝えると、征十郎くんは僕が作るんなら何でもいいとまた笑う。何でもいいっていうのが一番困るのに、とじっとりと下から見つめ訴えると彼は困ったように眉を下げながら薫が作りやすいものでいいよ、と付け足した。
「それもそれで困るのに」
「ええ?じゃあ和食がいいな」
「ジャンルが広すぎるんだってば、もう……とりあえずスーパー行って決めよ」
ゆらゆら揺らした彼の手の熱さがなんだか妙に希薄に感じて、視線を落とす。しっかりとその手は握られ繋がれていた。
ちゃんとあたたかいのに、なんだか少し遠い感じがする。何かが間に挟まっているような、曖昧な感触がするのだ。ぴったりとくっついているはずの手のひらの皮膚が、彼を上手く感じ取れないみたいに。
ちらりと隣を歩く征十郎くんを見上げれば、真っ直ぐ前を向いた横顔が見える。彼は確かにここにいる。ここにいて僕の隣を歩いているはずなのに、何故かひどく遠い。
ぎゅうっと握る手に力を込めれば、征十郎くんはどうしたんだいと笑いながらもちゃんと握り返してくれる。確かに握り返してくれているはずなのに、どうしてだろう、なんだかよく、分からない。彼に身を寄せてみれば淡い制汗剤のにおいに混じって、彼独特のにおいが鼻先を掠めていく。
けれど何もかも、現実味が薄い。
「薫?大丈夫か?」
いつの間にか歩みを止めてしまっていた僕を征十郎くんが心配そうに覗き込んでいた。繋がった手から伝わる微かな体温に、ずきりと頭が痛む。なんだろうか、この感じは。くらくらと視界が眩む。
そうしてはたと気が付けば、僕は自分の部屋に立っていて、目の前には誰もいなかった。僕の手は誰の手にも繋がっていなくて、その代わりにとばかりに使い古された見覚えのある裁ち鋏が握られている。
ぬらぬらと毒々しいまでに艶やかな紅を纏った刃先に、頭が追いつかない。
すっと下げた視線、足元に、ぱっくりと喉の裂けた赤い髪の誰かが転がっていた。
「えっ」
はっと息を飲んで瞬けば、すぐ目の前でひどく心配そうに顔を歪めた征十郎くんが僕を見つめていた。足元で光を失くしていたあの赤い瞳は、今はきらきらと美しい輝きを放っている。
ああ、なんだ、あれは現実ではなく、白昼夢のようなものなのか。もう一度瞬きをして、ゆっくり息を吐いた。
「薫、本当に大丈夫か?」
「うん、少し、眠たいだけ」
ゆっくりゆっくり瞬きをして、気持ちを落ち着けていく。
いつもと違った。よく彼の死んでしまうところを想像してはまるで夢のように見ていたけれど、こんなのははじめてだった。突然始まって、でももうその時には全て終わっているだなんて。
どうしたのだろう、知らぬうちにストレスか疲れでも溜まっていたのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていると、僕の手を握る征十郎くんの力が微かに強まった。絡んだ指が離れていかないようにとばかりにきゅうっときつく絡みついてくる。
見上げた彼は不思議な顔をしていた。泣いてしまいそうな、何かを恐れているような、けれど安心しているような、何か言いたげだけれど何も言えないような、そんな顔をして僕を見つめている。どうしてそんな顔をするのだろう、と眺めていると、征十郎くんの唇がそっと開いた。
「薫」
揺れる赤い瞳の光は弱い。息を吸って何かを言おうとした征十郎くんはしかし、それを止めた。ごくりと言葉を飲み込んで開いた唇を引き結んでしまう。ゆらゆらと物言いたげな目だけが何かを訴えようと必死だけれど、僕にはそこからは何も読み取ることは出来なかった。
困った顔で見上げる僕に彼は少しの間逡巡して、ふっと息を吐くようにすぐ消えてしまいそうな淡い笑みを見せた。何でもない、と頭を振って、はやくスーパー行こうかと手を引き歩き出す。
引かれる手からは何も伝わらない。感じるのは薄くぬるい体温と、曖昧な感触だけだ。
「ねえ薫、明日は何処に行く?」
「何処でもいいよ。いつも僕の行きたいとこばっかだったから、今度は征十郎くんの行きたいところに行こう」
「僕の行きたいところか……特にないな」
「じゃあ、家でのんびりしよ」
「そうだな。ああそういえば、この前薫が観たいって言ってた映画、レンタル開始してたよ」
「ほんと?じゃあ借りて帰ろ、で、明日観ようよ」
「そうだね」
ふわりと征十郎くんのにおいが風にのって鼻先を掠めていく。制汗剤の香りに混じって、なにか血のような生臭いにおいが一瞬鼻を衝いた。
どうしてこんな臭いが彼からするのだろう。
見上げた彼の横顔はいつもと何も変わらない。けれど、何故だろう、手の感覚が先程よりも薄くなっているような気がした。くっついているはずの手のひらは今や何の温度も吸収しない。
確認するように下げた視界に、ふと影が映りこんだ。
街灯の明かりで出来た斜めに曲がった真っ黒な影は、ひとつしかなかった。
死体遺棄
rewrite:2022.04.22