青白い顔をした後輩はそこで息をつき、目を伏せた。ここ最近顔色が冴えず、日に日に目元に疲れを滲ませている彼は薄く隈の出来た目元を覆いながら小さく笑う。
「おかしいと思うだろう、こんな、こんな夢のことで。でも僕にはなんだか恐ろしくて堪らないんだ、薫は、もしかしたら……」
幼馴染の名を紡ぐその声は、何かに耐えるように揺らいでいる。
彼の幼馴染の東雲薫という子は、今年の夏、不慮の事故で亡くなってしまった。その時のことをよく覚えている。いつも冷静で落ち着き払っていた彼が酷く取り乱して、急に泣き出してしまいそうな顔をしたり、ぼんやりとどこかを見つめていたり、ずっと不安定だったのだ。
暫くして漸く安定を取り戻し始めた矢先、彼の顔色は悪くなっていったのだ。
「ただの考え過ぎだと思うだろう、僕だってそう思うさ。少し過敏になり過ぎているのは分かっているし、今の僕は冷静じゃない。でも、違うんだ」
ふっと視線をあげた彼が、薄暗い窓の外を見た。それから人のいなくなった体育館をぼんやりと見回し、外へと繋がる扉の前で止める。
「……一昨日から、」
じっと開け放たれたままの扉を見つめ、彼は細く息を吐き出すように低い声で言う。
「一昨日から、ずっと誰かがついてきてるんだ。帰り、一人で歩いているとずっと後ろの方を誰かが追いかけてきている……夢と同じ、ゆっくりとした足取りで、でも確実に距離を縮めるように、ずっと家までついてくる。僕がいつも通る場所は街灯が少なくて薄暗いけど、影ははっきり見えるんだ」
背筋を薄ら寒いものが這っていく。
嘘だと、何かの冗談だと思いたいけれど、目の前の後輩はそういった類の嘘も冗談も口にしない。そもそも彼は、冗談が苦手だ。
「いるんだ。振り返っても何もいないし誰もいないけど、いるんだ、そこに。影が、誰かの影が、僕の影に重なっているんだ、すぐ後ろに立ってるように少しだけずれて伸びてる」
扉を見つめていた赤と金が、きゅうっと何かを警戒するように細められる。私には薄闇に沈んだ風景しか見えないけれど、彼には何かがあそこに見えたのだろうか。
暫くじいっと扉を見つめていた彼は、ふっと目をそらし何かを諦めたようならしくない顔で薄く笑った。
「ずっと、こうなるんじゃないかと思っていた」
* * *
紺と灰色の混ざったような薄暗い空を見上げ、ゆっくりと息をついた。
幾分軽くなった心身に、やはり誰かに話すだけでも違うものだと感じる。明日、話を聞いてくれた玲央に謝罪と礼をもう一度言っておこう。誰かにあんな話をするのは僕も初めてだったが、玲央もこんな話をされるのは初めてだったのだろうし、そもそもそんな話をされるとは考えていなかっただろう。
足元に伸びる影を眺めながらそんなことを思っていたとき、離れた場所から誰かの足音が聞こえてきた。硬いローファーの踵を叩き付ける様な、少し強い足音。間の開き過ぎたそのテンポは、もう何度も聞いているものだった。僕が止まれば足音も止まり、歩けばついてくる。そうしている内にも足音は徐々にテンポを速めて近付いてくる。
また、振り返っても誰もいないのだろうか、それとも誰か、そこに立ってるだろうか。もしかしたら薫が……いや、やめよう。
さっさと早く帰って休もうと少しだけ速度をあげて歩く。帰ったらすぐに寝てしまったほうがいいだろう、もう随分と疲れている。ああでも、また夢を見たら―――
コツン。
すぐ真後ろで聞こえた音にはっと足を止めた。指先が震える。そっと見下ろせば、足元に伸びる影が見えた。
自分のものと、それに重なる誰かのもの。
細い息遣いが聞こえる。背中にそっと届く気配にぐっと唾を飲み込み、振り返ったその先に、きっとまた誰もいないとそう思っていたのに、
「薫……?」
そんな訳ない、そんなの有り得ないのだ。だって彼は、薫は、
「どうして」
湿ってひんやりとしたその声は紛れもなく薫その人のもので、凍り付いたように動けなくなる。
「どうして置いていくの、どうして一緒にいてくれないの」
底無し沼のような暗いぞっとする目でじっとりと見つめてくる。
これは夢なのだろうか、それとも現実だとでもいうのか。乾き切った喉では僅かな呼吸しか繰り返せない。何も言わない僕に、はらりと彼は涙を落とした。静かな涙だった。
「どうしてついてきてくれなかったの」
真っ白な、温度を微塵も感じさせない手が真っ直ぐ伸ばされる。縋る様に、奪う様に。
「独りはやだよ、ねえ」
影が溶ける。
点描の夜
rewrite:2022.01.14