“彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。”ひらひらと左手に握り締められた真っ赤なリボンを風に靡かせながら佇む彼の姿に、ふとつい先日手に取った小説の一説が過った。嘘で塗り固められた彼だけの楽園の最後の欠片が、今まさに崩れ去ろうとしている。絹糸のような美しい髪がきらきらと光を跳ね返しながら揺らめいていた。青い空を背に立つ彼のその姿はどこか現実離れしていてひとつの絵画のように現実味がない。何かの映画のワンシーンのようにさえ思えてしまう。ぼんやりとその光景に見惚れていると、彼は緩やかな笑みを浮かべ、朗らかな声で言った。「ねえ、司郎にまたねって伝えてくれる?また逢おうねって。司郎は俺に会いたくないかもしれないけど、俺は会いたいから逢いに行くねって」砕け散った彼の楽園の残骸が煌めく。愛おしそうに細められた目は酷く伽藍堂で、それが何より恐ろしかった。鉄の扉は開く気配すらない。彼を救えるはずの人はもう二度と彼の目の前に姿を現さないのだろう。それはそうだろう、彼がそうしてしまったのだから。「それと」浮かんでいた淡い笑みが、そっと花が綻ぶような笑みに変化する。見る者の心を柔らかく捕らえ鮮やかに彩るその笑みはしかし、今の私には何かとても悍ましいものに思えた。今の彼は何もかもが歪だ。ゾッとするほど捻じ曲がって、本能的な嫌悪を抱いてしまう。「きっとあり得ないことだろうけど、もし、もし司郎が俺を許してくれるって言うのなら、まだ好きだって言ってくれるのなら、追いかけて来てって、伝えてほしいんだ。待っているからって」寒気がした。この人は何もかもに蓋をしてしまったのだ。そうしてその蓋の上に自らが思い描いた理想を書き連ねたのだ。あの時終わったと思っていた彼の国はいまだ終わっていなかったのだ。「それじゃあよろしくね、牧野君」幸せそうに柔らかく、美しくも酷く禍々しい微笑みを浮かべた彼は呪うように空を見上げ、飛んだ。伝える相手のいない伝言を遺して。
rewrite:2022.03.10 | 少女地獄「彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。」/ 夢野久作