ぞっとするほど赤い唇が目の前でゆうるりと弧を描いていく。長い睫毛に縁どられた虚ろな黒いガラス玉はただ光を反射して、一層作りものめいた輝きを放っていた。睫毛が青白い肌に淡い影を落とす様すら恐ろしく完璧な、それ故に人間味の欠けた笑み。もともと人形染みた顔がその笑みのせいでますます人形のように見え、その現実離れした、完璧な彼の笑みに心を奪われてしまった。どこか今にも崩れ壊れてしまいそうな、そんな危うさが漂う雰囲気までもが私を魅了する。こんな人がこの学園に居ただなんて全く知らなかった。ざわざわと震える胸に同調するように、彼が落とした本を差し出す手が震えそうになる。「ありがとう」白魚の指が慈しむようにそっと表紙をなぞった。耳にするりと入り込むその音にぐずぐずと脳が溶けだし上手く呼吸が出来なず、ただ頷くことしか出来ない。彼はもう一度礼を口にし、艶やかな黒髪を揺らし去っていった。そうしてそれから、彼には一度も出逢えずにいる。どこの誰なのかも分からず、かといって聞いて周るのも憚られた。また偶然出逢えやしないだろうか、と彼と出逢った廊下を日に一度は歩き、今どうしているだろうかと彼のことばかりを考え、ただ熱に浮かされたような日々だけが過ぎていく。今日も件の廊下を歩んでから図書室へと入り、特等席となりつつある図書室奥の机へ向かう途中、「(本物……?)」求めてやまなかった姿が視界に飛び込んできた。幾つもの本や紙が散らばる机にくったりと伏した彼の姿に我が目を疑ってしまう。長い睫毛の縁どる瞳は今は瞼の奥に隠され、鮮やかな赤い唇は柔く綻んでいる。眠っているのだろうその姿は生命というものを全く感じさせず、あの時の彼だとすぐに分かった。息が詰まり胸が苦しくなり、じわじわと熱が溢れ出して体内を這いずり回っていく。欲望のままに目元にかかった髪に触れ、そのさらりとした感触にすら胸が騒ぐ。ああ、たまらなく彼がほしい。その想いを吐き出すよう指に絡めた髪へそっと、唇をよせた。
rewrite:2022.02.15